東日本大震災支援 その1
以前書いたように、東日本大震災の支援に、岩手県釜石市へ出張した。少しでも皆さんに現地の状況がお伝えできれば、と思い日記として残すことにした。
職場は東日本大震災発生直後から支援の参加者をずっと募っていた。私の部署では昨年末で退職者が出たまま補充がなく、正職員も私だけ。同僚に迷惑をかけ、仕事を放ってまで行くこともできなかった。しかし、今回パート職員の補充があり、上司のすすめもあったため、やっと支援に行かせてもらうことができた。
6月20日月曜日
大阪・伊丹空港からいわて花巻空港へ。先行した班から申し送りを受け、空港にて昼食後、4人で車にて釜石市へ。山々ののどかな風景が続くが、釜石市中心部近くへ入ると状況は一変。信号機は消え、建物も被害が見られる。
この日は移動で時間を費やし活動時間がほとんど無いため、挨拶と視察のみ。車で大槌町、陸前高田市を視察したが、現実離れしたあまりに甚大な津波被害を目の当たりにし、皆言葉もなく立ち尽くすのみだった。そんな中、ふと足下に目を落とすと、泥だらけのグローブとボールとベースが。
職場は東日本大震災発生直後から支援の参加者をずっと募っていた。私の部署では昨年末で退職者が出たまま補充がなく、正職員も私だけ。同僚に迷惑をかけ、仕事を放ってまで行くこともできなかった。しかし、今回パート職員の補充があり、上司のすすめもあったため、やっと支援に行かせてもらうことができた。
6月20日月曜日
大阪・伊丹空港からいわて花巻空港へ。先行した班から申し送りを受け、空港にて昼食後、4人で車にて釜石市へ。山々ののどかな風景が続くが、釜石市中心部近くへ入ると状況は一変。信号機は消え、建物も被害が見られる。
この日は移動で時間を費やし活動時間がほとんど無いため、挨拶と視察のみ。車で大槌町、陸前高田市を視察したが、現実離れしたあまりに甚大な津波被害を目の当たりにし、皆言葉もなく立ち尽くすのみだった。そんな中、ふと足下に目を落とすと、泥だらけのグローブとボールとベースが。
持ち主はどんな人なのか、どうなったのかと考えると急に現実に戻された。普段通りの生活をしていた多くの方が、この津波で命も、それ以外のすべての物を奪われたのだと思うと、怒りと悲しみと落胆とが混じり合ったやり場のない複雑な感情で胸が一杯になった。
この日はいわて花巻空港-釜石-大槌-陸前高田、最後は兵站地の遠野まで300km近くを一人で走った。大した距離ではないのだが、普段仕事でしか、しかも近距離しか運転しない私にとってこんなに長く自動車を運転したことは免許を取って以来初めてかも知れない。
宿に帰ってからもミーティング、そして出張中は毎日報告書を作成しメールで当日中に報告しなければならない。まだ初日、先は長いぞと思いながら、とある民宿の一部屋に男三人が布団を並べて眠りにつく。屋根のある場所で、畳の上・布団の上で寝られることを感謝しながら…
つづく