心臓病 のち うつ病 ときどき 腸閉塞

どん底からの復活をめざして…

私とバイク その3

 私が友人から譲り受けた物は俗に「セパハン」と呼ばれる改造部品だった。セパハンとは「セパレートハンドル」の略で、純正よりより低い位置につけられるレース車のようなハンドルである。これを付けることにより前傾姿勢となり、コーナリング時などの乗車姿勢が決まる…というものだった。しかし取り付けてみてはじめてわかったのだが、実際はカッコだけでひどく運転しづらいのである。

 その改造部品を友人宅へ受け取りに行き、その場で友人と一緒に装着した帰り道。

 前傾姿勢になると、視線が近くなり、遠くまで見えにくくなる。私は慣れない乗車姿勢のため、車線の左端をややゆっくり走行していたが、私を右から追い越して行った車がしっかり見えていなかった。その車が私の前を横切り左折した瞬間、私は車の後部ドアの辺りに突っ込んでしまった。原付ではよくある事故である。
 相手の車はクレスタツインカム24。当時では結構いい車である。おまけに窓にはスモーク、字光式のナンバープレート、一見ヤンキー風だ。
 私はとりあえず相手が車から降りてくるまでわざと倒れたまま様子を見ていた。「車とバイクが接触したときには相手が車から降りてくるまで倒れたままでいろ」というのはあの國武舞こと清水国明氏から学んだ言葉である。
 しかしクレスタから降りてきたのはごく普通の会社員のおっちゃんだった。

 「おーい、大丈夫かあ!」

 私が起き上がらないのを見て少し焦っていた様子だ。私は相手を確かめてからおもむろに「イテテテ…」とわざとらしく起きあがった。

 たまたますぐ近くに警察署があったので二人で事故を報告しに行ったが、スピードが出ていなかった上にブレーキをかけたため、私はどこも打っていなかったし、バイクも倒れただけだった。私がそんな状態だから、車の人は当然なんともない。ただし車はへこんで私のバイクの赤い色がべったり付着していた。
 そんな程度の事故だから、警察もまともに応対してくれない。しかも本来ならば明らかに車の方に過失があるのだが、警察も相手も私が改造部品をつけていることを指摘してきた。これはマズイ…。

 しかし結局、相手の人とその保険会社から一度ずつ電話があっただけだった。私の方の損傷も皆無だったので、それきりだった。

 私は事故を起こしたことよりも、それが結果的に改造部品によるものだったことを父親に咎められ、ひどく怒られた。

 「バカかオマエは!暴走族のつもりか~!」

 父も若い頃バイクに乗っていたため、そういうことに関してはうるさかった。というより、厳しかった。 私は純正部品に戻すよう父親に命令され、すぐに従った。



 その頃私も一応は受験生だったが、バイクから離れることはなかった。友人もバイク好き人間ばかりで、遊びといえばバイクだった。推薦してもらった大学もあったが、当然落ちた。作文だけ書けば入れる大学もあると言われたが、専門学校でコンピュータの勉強をすることに決めていた。気楽なものである。

 専門学校に進んでからは本当に時間が有り余っていた。毎日駅までバイクで通うことになったので、バイクの走行距離も飛躍的に伸びたし、バイクと接する時間も増えた。
 私は専門学校に通ってから車の免許も取得した。友人の中では2番目に早く免許を取ったのだが、私はもっぱらバイクばかりに乗っていたので早くもペーパードライバーになりかけていた。職業運転手である父親に無理矢理「乗れ!」と、休みごとに特訓を受けさせられたりしたくらいである。

 そんな中、夏休みに鈴鹿サーキットで行われる「8時間耐久オートバイレース」通称「8耐」を観に行こうという話が友人と持ち上がった。8耐といえば、年に一度、全国各地からそのレースを観にバイク好きが集まるという、いわばバイクの祭典のようなものである。五木寛之の名作「冬のひまわり」の舞台となったことでも有名だ。
 私と友人も、自分達の原付バイクで大阪から鈴鹿へ行こうと計画した。しかし、私のRG50ガンマは十分な車格と航続距離があるが、友人はお買い物バイクであるホンダのイブ。車重はわずか34kg、タンク容量は2リットル、ライトはとても暗い、そんなバイクである。

 チケットも手にいれたが、私は友人のイブが果たして鈴鹿までたどり着けるのかどうか心配でならなかった。
                                                              つづく