心臓病 のち うつ病 ときどき 腸閉塞

どん底からの復活をめざして…

私とバイク その2

 私とRG50ガンマの悪戦苦闘は続いた。

 最初はクラッチをつないで発進することさえままならなかった。クラッチをつなぐことに集中しすぎてアクセルを開けられないから、すぐにエンストしてしまう。
 なんとか発進時にクラッチはつなげるようになった。次はシフトアップだ。クラッチとシフトペダルにばかりに集中してしまい、右手のアクセルを戻さずにクラッチを切るものだから、エンジンの回転数が一気に上昇。あわててアクセルを戻しシフトアップしてクラッチをつなぐとガクン、と衝撃がきて、エンジンの回転数は一気に落ちてしまう。
 さあ、シフトアップもこなせるようになった。あとは慣れるのみだが、マニュアル式バイクの特性を全然理解してないものだから大変。平気で6速から1速にシフトダウンしたりするから後輪が「キュッ」と音をたててロックする。コーナリング中にも容赦なくシフトダウンして同じように後輪がロックし冷や汗をかいたこともある。何故だかわからない。それがエンジンブレーキだと気づくまでまだ相当の時間がかかった。慣らし運転もなにもあったものではない。

 その他にも水温計を燃料計と思い込んでいたこともあった。ガソリンを満タンにしても次の日乗ろうと思うとゲージの針が左端にきている。かと思えば、ガソリンが無いのに走行中ゲージの針が右端まできている。
 私は1カ月点検のときにそれをバイク屋の兄ちゃんに話したら受けた。相当受けた。私は“TEMP”という単語を知らないことを悔いた。

 そうこうしているうちに半年が経った。若いときの上達はなんでも早いもので、私はもう一人前に乗れるようになっていた。ふと海が見たくなれば神戸へ出向き、走りたいときは学校へ行く前に朝の5時から峠を走り、それから登校した。もちろん、停学が恐かったのでバイクをおいて自転車での登校である。

 ある日、私は友人から一つの情報を得た。とある部品を付けるだけで、最高速が100km/h近くまで伸びるというのだ。部品の名前は、リミッターカット。
 私が免許を取る前のバイクは原付のスクーターでも70km/h、マニュアル式バイクだと90km/hのメーターが付いていた。信じられないかも知れないが、当時は原付の市販車でそれくらいスピードを出すことができたのである。
 私が免許を取った年の4月、メーカーが自主規制を申し合わせ、市販車は今の60km/hまでしか出すことができなくなった。私のRG50ガンマも規制後のモデルで60km/hまでしか出せなかった。しかし、規制といっても電気的にエンジンの回転数を制御しているだけで、そのリミッターカットを配線の途中に付けるだけでその制御が無くなるのである。価格も3000円と安い。早速その部品を購入し、取り付けた。
 私は驚いた。ガンマのスピードメーターは円形で、時計でいうと9時の部分が0km/h、180度回って3時の部分が60km/hになっていて、それ以上の表示はない。たが、なんとメーターの針が振り切って270度回って6時の部分まで行っているではないか。ということは単純に見ても90km/hは出ていることになる。
 新車時のエンジンのアタリも良かったのか、私は直線での加速と最高速は他のどんな50ccにも負けなかった。本当に速かった。
 同じようなバイクが信号待ちでこちらをちらりと見て、アクセルを煽る。信号の前は渋滞もなく一直線の幹線道路。こちらも相手を見て、アクセルをブン、と吹かす。
 信号が青になった瞬間、2台がアクセル全開で急加速をはじめる。徐々に差が開きはじめ、やがて相手のバイクがバックミラーに映り、少しずつ小さくなっていく。

 「勝った!」

 そんな勝負も何度と無く繰り広げた。今思えば若かったなあ、と思う。

 さて、私が免許を取って1年後の1985年の夏、原付もヘルメットの着用を義務づけられた。その昔はヘルメットを着用しなくてもよい、というのが原付の魅力のひとつだっただけに少し残念だった。出費もかさむし、走る度にいちいちヘルメットを被るのが面倒だった。しかし何より漫画「あいつとララバイ」の研二ばりに風を感じて走ることができなくなるのが嫌だった。

 そしてその頃、私は友人からとある改造部品を譲り受ける。これが私にとって人生最初の事故につながるのであった…

                                                              つづく