心臓病 のち うつ病 ときどき 腸閉塞

どん底からの復活をめざして…

私とバイク その1

 私の長年の趣味のひとつであるバイク。

 特に理由はないのですが、バイクに対する思い出や思い入れを、思いつきで書いてみたいと思います。
 あまりバイクのことを知らなくても読めるように工夫して書いてみますので、よければ読んでやって下さい(笑)

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 私とバイクとの出会いは25年前にさかのぼる。

 当時高校2年生だった私は原付免許を手にするべく、大阪府門真運転免許試験場へと出陣した。

 「原付免許なんか簡単、勉強せんでも楽勝やで」

 思えば、友人や両親のこの一言が私の免許を少しばかり取得しにくいものにした原因だった。
 確かにクルマやバイクの免許に比べれば楽勝だが、はじめて運転免許を取る者に「勉強しなくても」は言い過ぎである。
 私も私で、本当に全く何も勉強せずに試験を受けてしまったのである。

 「原動機付き自転車でも、止むを得ない場合は2人乗りしてもよい」

 なんとこんな問題に○をつけていたのである。しかし「交通の教則」を読んだことのない高校生にとっての常識とは所詮こんなもんである。

 当然、落ちた。

 誰かに報告や相談をすればいいのに、なんと次の日も勉強せずに試験を受けに行ったのである。「昨日の試験問題はたまたま難しかったんだ」という勝手な結論をでっちあげ、私は試験に臨んだ。

 またもや、当然、落ちた。

 さすがにその日の帰り、私は試験場の近くの書店で問題集を買うことにした。私はその本を読んで、わなわなと震えた。

 「こんなん勉強せんかったら受かるわけないやんけ!」

 私は1週間ほどみっちりと勉強した。今度は受かった。
 勉強すれば簡単だったのだ、勉強すれば。

 私は免許を取ってきた当日、早速母親のスクーターを借りて近所を走り回った。おりしも母親が新しいスクーターを注文しており、1週間後にはお古のスクーターは私のものとなった。

 スクーターでの行動半径の広がりようはとてつもなく大きいものだった。当時病気で少し体の弱かった私は、自転車で坂道を登ったり遠方へ出かけたりするのが億劫だったものだが、原付免許を取って以来気兼ねなく出かけたり、遊びに行ったりできるようになった。初めての愛車、ホンダカレン50は私をいろんな所へ連れて行ってくれる、よき相棒となった。

 私はその当時まだバイクには興味がなかった。趣味というよりは自転車の替わりの足としか考えていなかった。しかし、友人達が学校で読みあさるバイク雑誌も、免許を取れば少し気になるものである。新しく発売されたスクーターの記事や広告が特に気になった。いくら足替わりとはいえ、母親が中古で買って4年も乗ったスクーターは古すぎる。最高速度は50km/hも出ないし、エンジンはかかりにくい上に、キック式スターターしかついていない。やはりいいスクーターが欲しかった。

 というわけで新しいスクーターを買うため私はバイトにいそしむことになった。

 順調にお金は貯まってきたが、色々な雑誌やカタログ、店頭で実車を見ているうちに、スクーターではなくマニュアル(変速機)式のバイクが欲しいと思うようになってきた。私は一応父にそのことを告げたが、若い頃大型のバイクに乗っていた父は「おまえのような運動神経の鈍い人間がマニュアル式のバイクに乗るのは危険」と猛反発を食らった。しかし反対されると余計に手にいれたくなるのは人の常。私の心の中では絶対にあのバイクを手にいれてやろうという信念が生まれた。スズキの真っ赤なRG50ガンマ。25年前で定価19万円、実売16万円という価格はスクーターに比べれば相当高いものであったが、私はバイトとお年玉でとうとうその金額を貯めることができた。

 私は最後の砦の親を説得し、念願かなって新車でRG50ガンマを手に入れた。ちなみに「RGガンマ」とは当時最高峰のオートバイレースで活躍していたスズキの名車である。原付といえども、その名を冠したバイクの性能は、相当なものだった。

 その当時の高校は今ほど免許取得にうるさくなく、私の高校でも免許を取得しても、バイクに乗っていても学校は何も言わなかった。(ただしバイク通学が見つかれば停学だった。)
 スクーターではなく、マニュアル式のバイクに乗ることがバイク好きの若者の一つの憧れやステータスシンボルになっていたそんな時期、私は自分のバイクがたとえ原付であっても、ちょっとした自慢であったし、優越感を感じていた。

 とはいうものの、マニュアル式のバイクの操作は非常に難しく、なかなか乗りこなせなかった。クラッチを切り、アクセルを開けながら、ゆっくりとクラッチをつなぐとバイクが動き出す。エンジンの回転数とスピードが上がればアクセルを戻し、クラッチを切って、ギアを上げ、クラッチをつなぎ、またアクセルを開ける。こんな複雑な操作を運転しながら無意識にできるというのが私には信じられなかった。

 私はRG50ガンマと悪戦苦闘することとなった。

                                                             つづく