心臓病 のち うつ病 ときどき 腸閉塞

どん底からの復活をめざして…

私とバイク その6

 私は自宅で喀血した翌日、病院へ行った。今すぐどうこうという状態ではなかったが、入院の上、精密検査を行う事になった。検査の結果、私の数年来の持病が原因で、いよいよ手術が必要だ、との診断だった。
 検査が終わってからはすぐに日常生活に戻れたが、手術の日時は決定していた。入院期間は約3カ月。私はその間、これまでほとんど毎日生活をともにしてきたRG50ガンマが、ガレージの片隅で埃を被るのを想像するだけで辛かった。それならば、と一緒に8耐へ行った友人に乗ってもらう事に決めた。その裏には、もしも私のガンマが乗り手を失うような事があれば、後は頼む、という遺言的なものもあった。

 風薫る5月。普段なら連休で遠出のツーリングに出かけるであろうこの季節、私は病室のベッドで手術前の準備に追われていた。検査、検査の毎日。私は病室に飾った小さな写真立ての中のガンマと自分を見つめ、深く大きなため息をついた。

 そして87年5月11日、11時間にも及ぶ手術は無事終わった。友人も、ずっと待合室で待っていてくれたそうだ。
 回復は予想以上に早く、同時に持病を克服できたので、退院後は以前よりも見違えるように元気になった。
 友人がバイクを返しにきたとき、その年(87年)の8耐のプログラムとキーホルダーを持ってきてくれた。ああ、もうあれから1年経ってしまったんだな、と、何だか感慨した。
 それからなんとか徐々にバイクにも乗る機会も増え、9月には日帰りだがツーリングへ行けるようにもなった。
 とある京都の山間部の渓谷をのんびりと走る。快晴だが暑くもなく、木漏れ日がキラキラと視界に入る。ヘルメットのシールドを開けると冷たい風が心地よい。


 風と、バイクと、体と、心と、時間が同化する。その瞬間、「ずっとこのままでいたい!」と思った。


 私はこのときの歓喜、至福感を今でも忘れない。こんな感触はこのときが最初で最後である。


 私は3カ月近く入院したが、幸い留年もせず、就職も決まった。当時私は車(原付)の免許しか持っていなかったので、学生のうちに自動二輪免許を取るべく行動を開始した。

 まずはリーズナブルな試験場での飛び込み。車の免許は持っているので学科はなし。しかし、先ずは小型自動二輪(50cc~125cc未満)から。大阪では「段階取得制度」が存在し、小型二輪から取らなければならなかった。
 実技試験の車種はCB125。軽く乗り易いバイクだが、飛び込みは思ったより難しい。仮に小型が取れても次は中型自動二輪(現在の普通自動二輪)だ。私は何度か落ちるうちに、金額よりも時間を惜しむようになった。もう11月である。
 余談だが、実技試験の帰り、白バイにスピード違反で捕まえられたことがある。23キロオーバー。車が50キロで走れる道を原付で同じスピードで走って捕まえられた。この出来事が私の二輪免許の取得を決定的にさせたと言ってもいい。

 そして京都の某教習所へ。京都の教習所は価格が安く、当時の私の家・高槻からは大阪市内へ出るのと距離的に変わらず、逆に時間的には短くて済んだ。この某教習所には過去に友人、同級生も通っていたし、教習車種が当時としては最新のホンダVFR400だったこともあり、私は迷わなかった。

 私は全ての実技を時間内でクリアし、卒業検定も1発で合格した。教官からは「上手いなあ」と誉められたが、「はい、よく無免許で友人の250ccのバイクを乗り回してました」とか「大阪では小型の飛び込みで2回も落ちました」などとは口が裂けても言えなかった。

 私は就職の直前にやっと念願の普通自動二輪免許を手に入れた。しかし、その代償に愛車、いや相棒であるRG50ガンマを売却せねばならなかった。バイクの楽しさ、面白さ、魅力、恐さ、全てをこのガンマは教えてくれた。その愛着のあるバイクを手放すのは辛かったが、先立つものが無かったのだ。
 しかし、ガンマはお金ではなく、自動二輪免許となって、今も私の免許証入れの中で生きている。ふと免許証の「免許の種類」と「取得年月日」を見る度、ガンマの記憶が昨日の事のように蘇る。


 いよいよ就職目前。私は働きだしたら月賦でもすぐにバイクを買おうと決めていた。色々なカタログを集めては検討していた。まるでおもちゃを欲しがる子供のように。

                                                                つづく